人嫌い

何もかも、私の自己愛と自意識過剰が悪いのです。

私は何かにつけて人を見下さずにはいられない性格です。どんなに些細な事からでさえ、他者の粗を見出して喜んでいるような人間です。

そういう病的なまでの高慢さは、みな臆病の裏返しに過ぎない。自分の存在に確信が持てないから、その分だけ他人を下に置くことで安心しているのでしょう。

 

醜い。そんな関り方しか出来ないのなら、一生引きこもっていた方が遥かにましだ。しかし社会がそれを許さない。黙っているだけで不利益を被るので、どうにかして人間とやり取りせざるを得ない。

 

それは私の望みではなく、単に生き残るためだけの要請です。私自身に一人きりで生きるだけの能力がないので、他者に頼らずにはいられない。頼るためには関係を築かねばならない。見ず知らずの他人を崖際から救ってやれるほど、この世は聖者に満ちているわけではないのです。助けを求めるのなら、相応の見返りか、あるいは見返りなど必要無いと錯覚させる程度の関係性が必要だ。

 

だが、そんな事は私にとっても、相手にとっても、不幸しか産まないに違いない。上辺だけの好意など、容易く見抜かれるに決まっているし、私も虫唾が走る思いがする。だいたい私は、一般に親しい友人と呼ばれるはずの何人かにさえ、まったく心を許す気にはなれない。関係を完全に途絶させないための努力、つまり、たまの会話や食事にさえも、耐え難い恥辱を覚える始末。

 

どうして私が、こんな無意味なことに労力と時間、そして精神の余裕を費やさねばならないのか? 本当は一人で居たい。誰にも会わずに部屋で寝ていたい。そういう記憶を思い出すたび、私は本当に自分が嫌で堪らなくなります。

 

要するに、私は自分以外の人間を、完全に無価値でとるにたらない存在だと認識している。そんな塵芥に交わらねば生きていけない私自身というものに、強い屈辱と憎悪を覚えるのです。相互扶助の理念というものは、まったく私に適していない。それでも頼らずには生きてゆけない。だったら扉の内側に閉じ籠り、餓死した方が良い気がしています。

 

 

 

『そんなんで生きてて何が楽しいの』って、さすがに正面切って言われたことはありませんが、たまに自分の妄想が尋ねてくることはあります。

罵倒が勝手に湧いてくるなら、それに対する応答まで自己完結しておくのが筋というものです。

 

だいたい、何で僕が能動的に生きているものと決めつけるのか?

単に死んでいないだけで、生きようとして生きているわけではないのです。

決定的な破滅、無へと引きさらわれるまでの過程が恐ろしいので、そこに陥らないための消極的な骨折りを続けている。

害虫が、自らを叩き潰さんとする新聞紙から逃げ惑うようなもので、そんな営みにまで文句を付けられる謂れはない。

 

すると『お前をそのような心理に追い込むのは、お前自身の心持ちではないか』という的を外した答えが返ってきますね。

しかし、それはその通りです。

私は自ら望んで不幸でいるので、誰にも邪魔をすることはできない。

幸福追求の権利があるのなら、あえてそのような追求に走らないことも、当然許されて然るべきです。

 

与えられたものを、無理して最大限に楽しまねばならない道理などない。

途中退席すら許されないで駄作を直視し続けるより、寝ていた方がよっぽどましです。

生まれて来たからには、こんなものは糞以下だと主張する権利がある。

 

『お前がつまらぬ人間だから、世界が色褪せて見えるのだ』

馬鹿な、全く色褪せてなどいないのです。

私がいかにつまらない、ちっぽけな人間だろうと、周りを見渡せば目に入るものはある。

地獄!

天国のイメージが何だかぼんやりして掴みどころがないのに対し、地獄の描写があれほど色彩豊かに鮮明なのは、それがこの世の別称であるからだ。

 

ほっといてくれ。

ねむい 怖い

眠くてたまらない。

ほとんど身動きが取れない。

 

再三言っているように、ずっと眠っていられたら素晴らしい事ですが、私を取り巻く環境がそれを許してはくれない。

しかし降り積もる負債から目を逸らしてさえしまえば、時間が週単位で飛び去って行くのは面白いです。

途中で起きる事がなかったらもっと良い。

 

どうも最近は眠りが浅く、夜、眠っている最中にたびたび目を覚まします。

夜はいつにもまして何もかもが怖いので嫌だ。

月が見えない日は尚更で、不安すぎて再び眠る事さえ儘ならない。

 

まあ酒飲んでしばらくすれば、また眠くなるのでさほど問題にはなりません。

これが本物の不眠に変わった時が私の終わりだと思っている。

 

 

 

夜に考え事をすべきではないというのは昔から分かっている事で、けれど、むやみに思考が先走るのもまた夜です。

たぶん暇だからでしょう。

正気に返れば今の状況で暇などと言ってはいられないが、どのみち夜中の朦朧とした状態でまともに作業が進むはずもなく、私にはいわば消極的な自由が与えらえるのです。

 

人間は退屈だと碌な事をしない、考えない。

布団から見上げる散らかった部屋は、必ず、私に自分自身の末路を意識させる。

こうして誰にも見つからずに死んでいくに違いない。

不健康な色の蛍光灯が切れた後にも、腐臭を放つ死体は残り続ける。

誰かに覚えていてもらいたいなどと思っているつもりはなかったが、それにしても、これはあんまりじゃないか?

醜すぎる自己憐憫。死にたい。いや死にたくはない。

 

行く手には暗い穴だけが待ち構えている。

僕がいったい何をしたのか、と問いたくなるが、何もしていないからこんな始末になったのだ。

ではどうして何もしなかったのかといえば、それは恐ろしいからでしょう。

底なしの孤独よりも、なお扉の外は恐怖に満ちている。

それなら私はずっと寝ていたい。

幸いなことに、酔いが回って来たので。

毒だこれ

毒ですよ。吐いても大して楽にならない。
なんで俺たちは進んで毒を飲んでいるんだ。
これは殺菌とか燃料とかに使うべきものであって、どう考えても飲み物じゃねえよ。馬鹿なのか?
誰も彼も気が狂っています。
ここまでして暮らしていかなきゃならない理由はなんだ。
理由など、考えること自体が馬鹿げているに違いない。


朝、玄関先で蝉が死んでいました。
そんな季節かと思いながら廊下を進むと、足元で別の蝉がもがき出しました。
階段を降りれば、そこには蝉の惨殺死体が転がっています。下手人はおそらく猫でしょう。
エントランスから外へ出た私の腹に、死にかけの蝉が止まって弱々しく鳴き始めます。うんざりだ。

だいたい無闇にでかいんですよあいつらは。
小蝿の慎ましさを見習えないものか?
いくら手のひら大とはいえ、日常見かける虫けらの中では最大サイズに近い。
身体もでかければ声もでかい。
声というのは違うかもしれないが、そんなことはどうでも良いんですよ。とにかくうるさい。

慣れたからなんとも思わないという方もいるでしょうが、しかし彼らは異常なのです。
たとえば冬になると何処からともなく湧き出して、いっせいに叫び出す生物の一群が、突如として出現したら嫌でしょう。

単に慣れというだけで見過ごしてはならない。
所構わず入り込み、動物の生き血を吸う連中も、他種族に飼い慣らされて、愛想よく飯を要求する生き物も、考えてみれば意味がわからない。
体長の数十倍くらいある物体を地表に乱立し、延々とその中を動き回っている奴らはもっと不気味です。

本当にわからない。
私はどうしてこんな布の塊の中にいる?
このあと数時間にわたってこの世から切り離されることを、なんで当然のごとく捉えているのか?
こうしている間にも私たちは、茫漠たる暗黒の中を凄まじい速度で回転しながら、得体のしれない光球の周りに纏わりついている。
神はいないので、天球をこのように飾り立てたのは彼ではないので、したがって全てが無意味だ。
生存と、陰電子の一時的な励起状態との間に、果たしてどれほどの差異があるというんでしょうか?

まあ何だっていいです。
下手の考え休むに似たり、一生寝ていたほうが遥かにましだ。
不本意にも目覚める羽目になったなら、まずは味噌汁でも飲みましょう。

月に見られているから仕方がない

いま泥酔した状態で散歩しています。

トイレに入ったら他人種に対する露骨なヘイトスピーチが書かれていました。
楽しい。
私達は何かを見下さないと生きていられない。自分より下の人間がいないと安心できないのだ。
必死ですね。
今、私は公園に退避しています。



それにしても、夜中にうろついていると延々と切り替わっている信号が目に入って不安定な気持ちになります。
夜更けに車の通るはずもなく、私は赤信号を無視して渡る。
それでも信号機は赤と青のあいだを往復している。

そこにあるのは秩序というより無関心です。
人がいようがいまいが、ひたすらに決まった動作を繰り返す。
機械なので当然ですが。

人を律するために作られたものが、人がいなくなっても動作しているのは面白い。
その調子で、人類が滅んだあとも点灯を繰り返してくれれば良いと思います。
しかし交差点に突っ立っているただの機械に何かを見出そうとするのは、どう考えても馬鹿げている。
過度な一般化は傲慢のあらわれだ。
信号機が、人間の感情を解するとでも思っているのか? 解さないからこそ良いんじゃないですか。そういう事です。


先ほど申し上げましたように、私はいま公園に居ます。
眼の前にあるジャングルジムに登りたいですが、登りません。
なぜなら私は大人だから!!
大人なんぞになるよりは、信号機として一生赤青を繰り返していたほうが遥かにマシです。

今はジャングルジムでこれを書いています。
ざまあみろ。夜風が気持ちいいので吐き気がします。
昔、ジャングルジムの頂上から落下して無傷だったことがあった。
どこも引っかからずに垂直降下したからです。
箸にも棒にも掛からない。
運命の方でも、私を傷つける価値を見出さなかったに違いない。
私の妄想は、こんな時でも私を嘲笑している。


たぶん水道が無かったからでしょう。手が洗えない。水を飲めない。一生身を清めることはできない。
しかし私は、きれいなものが好きなんです。
それだけです。
その程度のことで、苦しむ必要がどこにある?
代償を支払わなければ何も得られないというのなら、私は一生寝ていたい。
ベンチで寝ます。ズボンのゴムが本当に気持ち悪い。これじゃ眠れないじゃないか!


少なくとも月はきれいです。街灯も同じくらい。だから私は幸福です。動けないとしても。
風に葉っぱが揺れているのを眺めます。
頭上から虫が降ってくるような気がします。
星が一つだけ見えたので、私は仕方なく立上がる。
気分が悪いのでやっぱり座る。



砂場にかけられた網目上のカバーで、何かを思い出しそうになりました。
僕にもあれを剥がして遊んでいた頃があった。

本当か?
過去など未来と同程度には不確かです。
ある日、突然記憶が別人のものとすげ替えられたとして、私が気付くとも思えない。
砂場で山を作り、誰かと穴を掘って遊んだのは、本当に私の記憶でしょうか?
見ず知らずの、年上の子どもに逆上がりを教えられたのは?
その場で出会った誰かと、ひたすら広いすべり台を滑っていたのは?
空想と記憶の区別がつかない。
現実とも区別がつかなくなれば、それは実に素晴らしいことだ。
どうにもならない悪夢より、好きにできる妄想のほうが多少は良い。



やっと頭が正常になったので、家に帰ります。
この世には実質的に私しかいないので、私の正気を判定するのは私だけだ。
客観的にも主観的にも、どう考えても私は正常だ。
だから歩ける。素晴らしい。
それなりに長いこと座っていたようだ。
月の位置が変わっている。
酔いが覚めたので、今や私は完全に理性的です。帰れる。帰りたくはないが。
結局、衣食住が揃わなければ、私達は喋ることさえできないのです。
とにかく寝ているのが一番です。何もせずに。


百円玉を落としたのでジュースを買えなくなりました。
貨幣の価値などそんなものでしょう。
何ループ目かに入った音楽が、イヤホンからずっと流れています。しつこい。

84円

無意味に徹夜をしました。進捗はありません。

 

一晩中目を覚ましているというのは、私の知る限り最悪の愚行です。

睡眠より優先される事項などない。

何をするにも一旦寝てからやった方が良いに決まっています。

これまでの、数度の経験からもそれは分かっている。

なんで私は、すべきでないと分かっている事ばかりやっているんでしょうか?

やるなと言われるとやりたくなるというのは人類共通の性向らしいですが、それにしたって度が過ぎている。

まあ、目先の事ばかりに注意を向け、長期的に見れば不利益になる行為を繰り返すのは今に始まった事でもないんですが。

 

 

徹夜した日の朝って嫌ですよね。

常にもまして朝日が憂鬱です。閉め切ったカーテン越しに、薄い光が部屋を照らしている。

一日の始まり。苛立たしい鳥の囀り。

隙間から少し覗いてみると、電柱の向こうに雲が浮かんでいる。

勝手に青空にならないでくれ。ついさっきまで真っ暗だったじゃないか。

どうせ昼など暑いだけだから、ずっと夜であって欲しい。

しかし一度昇ってしまった朝日は、半日くらい経たないと引っ込んでくれないのです。

別にこの日に限らずとも、物事の始まりはいつだって忌まわしい。

仕方がない。

 

切手は一応買ってあります。

適切なサイズの封筒も用意しました。

ひとまず、封筒に宛名を書かなければなりません。

絶対に旅行に行かなければならない

昆虫が怖いのは、大して虫のいない環境で育ったからだ。

死ぬのが怖いのは、まだ一度も死んだ事が無いからだ。

人間が怖いのは、碌に人と会話しない人生を送って来たからだ。

 

 

思い返してみると、見事に自分自身の話しかしていない。

それも当然というもので、人と関わらないから他人の事など書きようがないのです。

自己中心的だから孤立するというより、孤立しているからこそ自分の事しか考えなくなる。

すると自意識は加速度的に肥大化し、その人はもはや現実というよりは、強固な自己意識が作り出した幻想の中に住まうようになるのだ。

空想の中に自ら引きこもっている人間を、外部から救い出す術はない。

 

 

しかしそんな事はどうでも良いのです。私は、ついに外へ出て、酒を買ってくることに成功しました!!!

これは人生で唯一の成功体験といってよい。お陰で今はいい気分です。

先ほどはライターでポテチに火を付けようとしていたが、ギリギリのところで正気に戻ってやめました。

いま調べてみたところ、ポテトチップスは着火剤の代用品として使われるくらいよく燃えるようで、アルコールさえもう少し入っていたなら、私は晴れて放火犯になれていたでしょう。非常に惜しかった。

判断能力のない人間の傍に、危険物を置く事の恐ろしさがよく分かりますね。酔っぱらいなど赤子と同じだ。今の私は赤ちゃんなので何しても許される。神がいなければ、すべてが許される。許せ

 

思えば分別のない子供の頃は、今より多少はましだった気がします。

酒を飲めば思考は一気に幼児化し、ついでに認知症のリスクも高まって一石二鳥。

当然ボケた私の面倒みる人間などいないわけですが、こういう場合ってどうなるんですかね。

孤独死という結末だけは決まっているが、そこへと至る過程が分からない。

結果より過程が大事と言う訳ですが、これほど興味の惹かれない途中経過もないだろう。

それは私に限った話でもありませんが。

生れて、なんやかんやあって、死ぬ。

見ろ、これがお前たちの全てだぞ!

その過程こそに意味があるんだとか主人公みたいなこと言い出す人は黙っててください。

分かってるから。あなたが完全に正しい。

 

 

ところで表題の件ですが、近々どこかに宿泊する事を夢見ています。

ずっと自分の部屋にいると気が狂うのは周知の事実だからです。

最寄りのアパホテルにでも泊まろうか。

それを旅行と呼んで良いのかは大いに怪しい所ですが、家に居るよりは良い気がする。

問題は、予約などをする気力がない事です。頭痛もするのでとりあえず寝ます。

寝るしかない。